気仙沼「すえひろ2号店」さんのレポート [【宮城県】被災地のカレー屋さん]

このプロジェクトの活動の大部分をご支援いただいている宮崎厚志さんの気仙沼いりのレポートです。宮崎厚志さんは仕事の関係で仙台入りしたときにたまたまカレーを食べにいらっしゃっていただいて、この「カレーの力を信じているプロジェクト」を知っていただきました。それ以来この活動に賛同頂き、仕事の合間をぬって募金箱を置いてもらうチラシを全国のカレー店に配ったりしていただきました。これも「カレーで繋がる」いい出会いです。
僕らがお店の都合で動けないところの大部分をサポートしていただき「RQ市民災害救援センター 」の活動とあわせて気仙沼や大船渡に入っていただきました。
宮崎さんにはこの場を借りましてお礼と感謝申し上げます。

気仙沼の今と被災されたお店の気持ち、そしてそれと直接向き合う宮崎さんの気持ちが書かれています。「今」「これから」を感じていただければ幸いです。

【気仙沼市仲町2丁目 インドカレーすえひろ2号店の捜索活動レポート  文責:宮崎厚志】

6月28日
朝8時半、薄い膜のような雲を抜けると、なぎ倒された防風林のなかに倒れずに立っている松の木を何本か見つけた。
津波の傷跡を眺めながらの仙台空港着陸は、これで3度目。
1ヶ月前はバケツリレーのような作業員の手渡しだったターンテーブルで荷物を拾った。

まずはバスを乗り継いで前回も利用した格安レンタカー業者「宅配レンタカー仙台」に出向く。
今回も5日間で合計約2万円で8人乗りワゴン車をレンタル。安い。
11時ごろ、泉区のあちゃーるに到着する。
約束より30分遅刻したが、笑顔で迎えてくれた森夫妻。
賄いダルバートをいただきながら、行方不明の被災カレー店「すえひろ2号店」捜索の作戦会議が始まる。

丁寧にプレスされた大量のチラシに、森さんの熱を感じる。
これを効率的に避難所に配るには?情報をたどるために接触すべき相手は?いざ、すえひろさんが見つかったときは?
用意してもらった資料に目を通しながら、話を詰めていく。…はずが、いつしか話題はカレー屋談義に。
脱線しても誰も止める人がいないため、気づいたら2時間が経過していた。いかんいかん!

濃く煮出したチャイをいただき、昼過ぎにあちゃーるを出発。活動の拠点となる登米市に向かう。
登米にある「RQ市民災害救援センター東北本部」は、自分が参加している民間ボランティア団体。
廃校になった小学校の体育館を基地に、気仙沼市、南三陸町で広く活動している。
あいさつを済ませ、体育館内にテントを張って、一息ついた。
前回と同様、物資と情報を配達し、被災者のニーズを聞き取る「デリバリー班」に所属。
チームの活動時間外にカレー店主捜しをやらせてもらう了承を得る。
翌日に向け、物資配達後のすえひろさん捜索ルートを練る。
移動とカレー談義に大部分の時間を費やした初日は、ひとまずこれで終了。


6月29日
前夜の深酒にもかかわらず6時起床。スパイスの効果か、神経が研ぎ澄まされている。
朝食を済ませ、大量の配達物資を車に積み込んで、気仙沼方面に出発。
北上しながら見る景色は、1ヶ月前とほとんど変わっていない。大きな変化といえば、分断されていた本吉町小泉地区の国道45号線が開通していること。
瓦礫の原野を突っ切る新しい道路は、青い空へと異彩を放っていた。

気仙沼市北部の個人宅避難者のお宅を訪ね、物資を渡し、世間話を始める。やがて見えてくる被災者それぞれの問題を、ともに話し合う。
帰り際にカレーのチラシを渡すと、その場で友人に電話して探してくれた。感謝。
一緒に組んで行動したのは、南三陸町志津川出身の50代の肝っ玉かあさん。実家はあの志津川病院の裏で、食堂を経営していたという。
その食堂も跡形もなくなり、営業再開の見通しは立っていない。
だからか、次第にカレーの活動に理解を示してくれるようになり、貴重なアドバイスもいただく。

「このあたりで長くお店をやっていたなら、必ず地元の人が知っているはず。逆に地域とのつながり大事にして来なかった店なら、探すのはかなり難しい。やみくもに避難所を回るよりも、まずはそのお店があった場所に行き、知り合いを捜しなさい」

昼過ぎにRQでの任務を完了。
すえひろ2号店があった気仙沼市仲町付近で、営業を再開されたお寿司屋さんがあると聞いて向かう。
「寿司屋 一心」さん。
店舗から数十メートルのところまで津波が押し寄せたものの、ちょうど高台にあって損壊を免れたという。
3台あった車両をすべて失うなど被害は小さくなかったものの、4月下旬には力強く営業を再開した。
ほとんどのタネは仙台の市場から仕入れているというが、二日前に水揚げが開始されたばかりの気仙沼産の生鰹が入っていた。
握りを塩でいただく。
初鰹の水揚げに漁港の再開を間に合わせるというのは、気仙沼の水産業者の目標だったという。
今も気仙沼には冷蔵・冷凍設備がないため、水揚げされた鰹はすぐに東京や仙台に陸送され、地元の分は少ない。
この寿司一貫ができあがるまでに途方もない苦労があったことは容易に推察されるが、それを知らなくても感動的なうまさだ。

そんな話の後、すえひろさんのことを聞いてみた。
女将さんはすぐにすえひろさんの向かいにあった菓子店に電話をかけてくれた。
だが、ここは森さんの初回調査で訪れており、有力な情報は得られない。
そのうち話は、先代店主が経営していたという「すえひろ1号店」に。
10数年前まで、気仙沼市南部の大谷海岸付近にあったことが判明する。
一心さんにお礼を言い、まずは2号店の場所に行ってみる。
森さんのレポートどおり、そこには何もなく、誰もいない。あるのは異臭と、蝿と、水たまりとなった津波の跡。
手がかりは期待できない。

1号店の場所は、運良く帰路の途中だ。
JR気仙沼線大谷海岸駅。志津川の肝っ玉かあさんが、子供のころの思い出を話してくれた。
「電車を降りたら海水浴場が目の前にあってね。いつも焼きたてのパンを買って帰った」
近くには瓦礫の集積場もできた。いつか地元の人がこの海で泳ぎたいと思う日は来るのだろうか。

かろうじて形をとどめた駅舎を利用し、復興市が出ていた。植木を売っていたおじさんに話を聞く。
どうやらすえひろ1号店はもう少し先の高台にあったらしい。
ただ、あそこは誰も住んでいないよ、と教えてもらう。とにかく行くしかない。

数分後、かつてすえひろ1号店だった家屋を確認。高台だが、津波はここまで来ていた。
大規模半壊だろうか。壁がはがれ、家財が散乱している。人の気配はない。大声で呼んでみる。返事はない。
藁をつかむ思いで、道路を挟んだ向かいにあった理容室を訪ねた。
出てきたのはおじいさん。初心者には少々難しい東北弁を話す人だったが、何度も確認したので間違いない。

「すえひろの長男は、近くにある奥さんの実家に避難している。その実家は昔は電器店で、うちの工事もしてもらったんだよ」

…つながった!
気仙沼での捜索を初めてわずか約2時間。チラシは5枚ほどしか撒いていない。
電器店に連絡をつけてもらい、こちらの連絡先を伝える。あとは折り返しの電話を待つだけだ。

 

その夜、すえひろ2号店の方から電話がかかってきた。
興奮を抑えつつ体育館の外に出て、カレーのプロジェクトの説明をする。
ただ、やはり見ず知らずの人間にいきなり電話で「支援したい」と伝えられても、戸惑うのは当然だった。

「再開はまだ考えられない。仮設住宅にすら入れていない状況だから」

けっして急かすことはできない。
店を再開してほしいという我々の気持ちを押しつけることも、絶対にできない。
今は、無事を確認できたというだけで十分だ。
一日でも早く、落ち着いた生活を取り戻されることを願うしかない。

では、お見舞金だけでも進呈します。
その申し出も、固辞された。

「お金はいりません。そのかわり、商売を立ち上げるとなったときに、うちの店を紹介してもらえれば。この状況でもがんばろうとしているカレー屋がいると、紹介してほしい」

すべてを失った人が最後に発した、力強い言葉だった。
それは必ず、お約束します。だからそのときは、本当に遠慮なさらずに連絡してください。
そう伝えて、長いようで短い電話は終わった。

蒸し暑い夜の田園地帯。あたりを見回すと、思い出したかのように一斉にカエルが鳴き始めた。


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コメント 2

monmon

ありがとうございました。
by monmon (2011-07-13 20:10) 

ニコ

週に二回、休みの度にすえひろさんに通っていました。店主夫婦様が無事だと知って安心しました。ありがとうございました。
by ニコ (2013-02-15 19:20) 

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